アラフォーの見る『天空の城ラピュタ』-奥の深い内容にまたも夢中になってしまうジブリの作品の凄さ
天空の城ラピュタ、シータ、パズー、ムスカの隠された裏設定を考察
こんにちは、先日久しぶりにジブリ作品をネットで購入して子育ての合間の休憩時間に鑑賞しました。
以前アメリカではジブリの作品はDVDの発売のみでネットでは販売されていませんでしたので、DVDプレーヤーを持っていない貧乏海外移住者はたまに見たくなるジブリの作品はハードルがちょっと高めだったのですが、今は携帯やiPadを持っていればいつでもどこでも見れる時代になって、赤ちゃん抱きながらでもパッと見たいものが見れるようになってくれて本当に便利です。
スタジオジブリ:天空の城ラピュタ より |
さて、1986年に公開された『天空の城ラピュタ』。昭和時代の作品なのに今見ても色あせることなく、本当に名作だなあと感じます。子供の頃に見たときもスゴイ!と思いましたが、アラフォーになって見てみるとまた違った視点でこれまた面白く。何度見てもホントに飽きないですね。
さて、今回久しぶりに見て色々思ったことがありましたので少し考察というか妄想してみたいと思います。
ラピュタの王位継承は女系であるようだ。
最近日本でも話題に上がる皇室の女系天皇をどうのこうの問題がありますが、どうやらラピュタは女性が正当な王位継承権を持っている一族のように思うのです。日本の天皇家は男系の血筋を守ってきていますが、女性の血筋をまもっているということなのでしょうか。
シータの一族のなぞ
シータの話によると、シータは母が亡くなる際に、ラピュタという名前を飛行石とともに継承。そして、空飛ぶ島ラピュタへの道しるべになる秘密の言葉は、シータの祖母から教わっています。
たったこれだけのことなのですが、飛行石と導きの呪文が無いとどうしようもできないラピュタの継承は、祖母から母へ、母からシータへと受け継がれているように表現されていると思いました。
シータの短い話の中ではありますが、シータの一族の話の中に男性はあまり出てこないし、たまたま女の子が生まれただけだったかもしれないですけども・・・。影が薄いなという感じがしますね。
また、結婚式でしか身に着けない風習もあったようなので、花嫁衣裳の装飾で使われていたことからも、女性のみが身に着けていたのではないかなと思うわけです。
対するムスカ(男性)の一族はラピュタに対する情報を継承しているようですが、飛行石が無ければどうしようもない状態。ラピュタの名前を持っていることから王の血族なのは確かなのですが、シータがいなければどうしようもない状態なのであります。
これはシータとムスカの間にかなり大きな力の差があります。つまり女性の方が強い権力を持っていたという事になるのではないかと思ったのです。
そうつまり、ラピュタは女性優位な国家であった可能性がありますね。
スタジオジブリ:天空の城ラピュタ より |
なぜラピュタを捨てて地上へと降りたのときに2つへと別れたのか
なぜラピュタの王族が地上へ降りそして、一族を2つへと別れたのか・・・なぜラピュタの存在をそっと隠したままにしてきたのか・・・。考え始めると不思議なことが山盛りあります。
一族が2つに分裂することで。ラピュタへの鍵を2つにわけることになり、よりラピュタの秘密を守りやすかったのかな、とも考えましたが、なんかちょっと腑に落ちないことがいくつかあります。それは、
- 飛行石とラピュタへを導くための呪文をシータの一族しか知らなかったこと、
- 飛行石が最初はムスカを全く受け付けずシータのみにしか使えなかった事、
- 地上でのロボット大戦の際にロボットはシータしか助けようとせず、ムスカを完全無視したこと
シータは始まりと終わりを司る神のような存在
シータにのみ飛行石が継承されている事、ラピュタへ導く呪文とあの有名な破滅の呪文のをも継承されているところから、シータのもつ力は始まりと終わりを司る力だといえます。
面白いのは、シータには実際にラピュタを操作する情報などは一切伝わっていないというところ。つまりラピュタの高度な科学文明や兵器を使って人々を支配する力は全くと言っていいほど持っていないのです。
ラピュタから地上に降り立ったシータやムスカの祖先たちは一体どうしてこのような継承の仕方をしたのでしょうか?地上に降りてから二つに分かれた王家。一体どうしてそうしたのか全く不思議です。
自分たちの子孫がいつかまたラピュタを必要とするかもしれないという想いから飛行石や導きの呪文や破壊の呪文を残したのでしょうか?そうだとしたら一緒に操作説明書が残らなかったのも不思議です。
ムスカの方は情報だけはしっかり残っていたようですが、空からロボットが降ってこなければ誰もラピュタの存在を信じなかったといっている事から、ムスカ自身ラピュタという名前を継承しつつもどこか信じていない部分があったんじゃないかとか、色々考えてしまいます。
今回はムスカがラピュタの兵力を自分のためだけに悪用したため、シータ(とパズー)によって消滅させれてしまいましたが、全く別の人が全く違う使い方をしていたらシータはバルスを唱えていなかったかもしれませんね。
パズー少年の執念
天空の城ラピュタの主人公であるはずなのに、なんだか影の薄い少年パズー。真面目で平凡で働きやのひたすら良い子のパズー君。
今回見ていて初めて気が付いた部分があります。このラピュタをめぐるパズー少年の冒険はただひたすらシータを守るために一生懸命なのだと思って今まで見ていたのですが、彼は彼でラピュタに対するとてもとても深い因縁というか執念を持っていることに気が付きました。
スタジオジブリ:天空の城ラピュタ より |
嘘つきと呼ばれた今は亡き父親
パズー少年の父親は生前気球で、嵐に遭遇した際に天空のラピュタ島に遭遇して、なんと写真まで撮影に成功しています。そんな奇跡の大発見をしたわけなのですが、なんと彼の話を信じる人は誰もおらず、それどころか嘘つきだ。とのレッテルを張られてしまったそうなのです。
実際の表現はないのですが、パズーの口ぶりからするとまるで、嘘つき呼ばわりされたことと父親の死がかかわりがあるように話しています。もしかしたら『嘘つき』というレッテルのため社会から疎外されてしまい、それを苦にして自〇してしまったのかもしれません。
パズーは父親の名誉を晴らすために、ラピュタを見つけることに非常に執着しているように見えるのです。
得にラピュタに対して興味もなくどちらかと言うと恐怖さえ感じているシータが、ドーラにラピュタを実際にどんなものか見てみたいといわしめたのは、きっとパズーの悲しいまでの執念のためなのではないかと思えてしまったのです。
というか、パズーに押し切られたのではないかと。
しかし。そこまで執着していたはずのラピュタを最終的にバルスできてしまったのは、彼が本当に心の清い少年であったからなのかもしれませんが、
彼にとってラピュタをバルスすることで、亡き父親の執念からの解放につながっているのかもしれないなあと思いました。
ムスカという人物
『目が~目が~』でおなじみのムスカ大佐。この人はいつから自分がラピュタの王になって世界を支配してやるという野望に取りつかれたのかとても不思議なのであるのですが、もともと優秀な人物だったのだろうと思われます。
スタジオジブリ:天空の城ラピュタ より |
自分の野望を叶えるために、政府をバックにつけて軍隊を動かしてしまうほどの権力を持っているのです。ラピュタの王族の子孫である以外にも、もともととても優秀な人物であったと思われます。
ただ、性格がかなりねじ曲がってしまっている。
まずは人間が大嫌いですよね。人間がゴミの用だー!(笑)みたいなことも言っていましたが、あの巨大なラピュタ島でシータと二人っきりで生活する予定だったようですので。どんなに権力持ってても、あの島で二人きりってかなりサミシイ生活になると思うのです。
たぶん、シータはラピュタの王族だから許せるのか、あるいはなんか飛行石がうまく使えなかったら困るからとりあえずキープしておこうと思っての発言なのか、謎ではありますが。普段から何人も部下を引き連れて歩いているくせにそんなことを言うのだから驚きです。
ムスカの抱える心の傷
もしかしてムスカは生まれつきか、後天的なにかが原因で目に障害があるのではないか?と思ったわけです。
ムスカとその仲間たちはみんなサングラスをかけています。初めはそういうファッションで統一してるんかなーなんて思ったのですが、なんでムスカは薄暗い場所でもサングラスかけてるんだろうと思ったんです。たとえば薄暗い軍の要塞の中とかでも。
そして薄いといってもサングラスをかけているムスカが、最終的に『目が~、目が~』になっていて、飛行石を直に手に持っていたパズーやシータの目に何の影響もなかったというのがどうも納得いかなかったんですよ。
それで、もしかしてムスカって目に何かしらの障害があって、それが原因でいじめられたことがあるのではないかと。
そうだとすると、ムスカの人間嫌いにも納得がいきます。彼はラピュタ王になって人間を見返してやりたかったのではないのかと思うのです。
そんな彼の願いを女神シータは聞き入れなかったというところですね。
なんか、よく童話とかにある心の清いものの願いは敵うが、心が汚れているものはひどい目にあうっていう展開の話に通じるものがあるように感じます。
まとめ
ここまで自分なりに考えて、妄想しまくって思うのは、やはりシータは願いをかなえる女神的な存在。パズーは心の綺麗な少年で、ムスカは心が汚れ歪んでしまった大人であったということなんだなあと。
まあ、ラピュタの継承権や、金銀財宝、とんでもない兵器による約束された絶対的な権力なんてものが我が物になると思ったら、そりゃどんな人でも狂ってしまうのかもしれません。
でもそんなすごいものを、バルスという一言で消し去ってしまう事ができるのも、まだ未来ある子供だからこそできることなのかもしれないなあと思いました。
大人だったら、バルスは言えていなかったかもしれないですよね。
いやあ、宮崎駿作品はいつ見ても新しい発見をしたり、色々考えたりさせられます。子供がもう少し大きくなったら一緒に見れるとかと思うとこれがまた楽しみでもあります。わが子はこの作品を見て何を思うのでしょうかね。
いやあ面白い♪
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